二万五千年前の、ほろ酔い── 古代の歯が明かした、人類最古の嗜み
堀 大河

人はいつから、心を少しだけ「ここではないどこか」へ連れ出すものを求めてきたのだろう。そんな問いに、思いがけない手がかりが見つかった。古代の人の、歯である。
二〇二六年九月、インドネシアのスラウェシ島で見つかった古い人骨の歯から、檳榔(びんろう)の実を使っていた痕跡が見つかったと報じられた。檳榔は、ヤシの仲間の木の実で、噛んだりしゃぶったりすると、気分を高ぶらせる成分を含むことで知られる。オーストラリアのグリフィス大学などの研究チームによれば、二人分の人骨のうち古いほうは、およそ二万五千年から一万六千年前のものだという。
手がかりは二つあった。一つは、歯に刻まれた深く丸い溝。実を丸ごと、長いあいだ口の中でしゃぶり続けたことで、すり減ってできたものと考えられている。もう一つは、歯の組織から、檳榔に含まれる成分そのものが検出されたことだ。これまで檳榔を使った最も古い証拠は三千五百年ほど前とされていたから、一気に二万年以上もさかのぼることになる。研究チームは、植物に頼って心を動かす習慣を示す、最古級の証拠かもしれないとしている。
もっとも、研究者たちは慎重だ。証拠はわずか二人分であり、その酔いも、今の噛み方に比べればずっと穏やかだったと見られる。はじめは、歯の痛みを和らげる薬として使われたのではないか、という見方もあるという。
私は、この檳榔を、旅の先々で目にしてきた。台湾の道端の店先で、東南アジアの市場で、口の中を赤く染めて実を噛む人々の姿を。東南アジアの各地では、今も婚礼や祭礼の場に、檳榔が欠かせない供え物として並ぶと聞く。それが二万五千年前の洞窟から続く営みだったと知り、思わず唸ってしまった。

研究は、それが祈りや儀式と結びついていたかどうかまでは語っていない。だから、ここからは私の想像だ。世界のシャーマンたちの多くは、ふだんとは違う意識の中で、見えない存在と向き合ってきた。日常の殻をほんの少し破り、向こう側に触れたいという衝動。それは、人類が祈りを覚えるよりも前から、すでに人の内側に芽生えていたのではないだろうか。
念のため書き添えておくが、檳榔は現代では健康への害も指摘されており、勧めるものではない。私が心を動かされたのは、実そのものではなく、二万五千年前の誰かが、痛みや不安を抱えながら、何かにすがり、何かを求めていたという、その確かな手触りのほうだ。
洞窟の暗がりで、ひとり実をしゃぶりながら、遠い何かを見つめていた人。その人と私たちのあいだに、実は、それほど大きな隔たりはないのかもしれない。
了
2026年10月31日
